こないだ、自死を選んだ20代ゲーム実況者(Youtuber)うごくちゃんの『地球滅亡60秒前』というゲームの実況を観ていた。


▶「地球滅亡 60秒前!」

https://play.google.com/store/apps/details?id=com.AvoCavo.Apocalypse60


地球滅亡60秒前の設定の世界で、人間を操作する。操作については、「暴力 or キス」のボタンしかないというめちゃくちゃかんたんなゲームだ。60秒間の行動によっては、クライマックスが違うので、結構面白い。



「なんもすることねえよなあ」


このうごくちゃんのコメントが印象的だった。実際、「何もすることないよなー」と思った。立派な人生の目的のようなものを掲げたとて、それが達成できなければ、自己嫌悪や虚しさの連続で、時には立ち直れるキッカケがなく、うごくちゃんのように自死を選ぶクライマックスが待っている世界線だってある。

そう思うと、自分自身も何かをすること自体を億劫に感じる。

そして同時に、そんなクライマックスの世界線となり得る日常を生きている友人がいることが辛かった。


いくら、彼らに「それが人生の醍醐味だ」なんて言われても人が生ける苦しみを抱えて自死を選ぶ姿は果てしなく虚しい。生きていて感じる限りなく思える虚しさほど、侘しいものはない。


そんな苦しみを味わい続けるのが、きっとわたしの人生だ。


そのことを受け入れ始めたわたしは、悲観的だ。

だが悲観的であると同時におなじくらい楽観的である側面に気づいた。

そう気づくと、「人生なんて、結局ヒマの連続だったのか」と最近は体感で感じることが増えた。





悲観主義者も、それが限りなく思えるほどに続いていけば、その末路には「実は、楽観主義者だったんじゃないか」と気づき始めるときが訪れるのかもしれない。


...


人生に関する言葉でよく耳にする。


「いつ死ぬかわからないから、後悔のないように生きる」

「涙の数だけ強くなれる」


とうに聞き飽きている、立派に仕立て上げられたこれらの言葉は、わたしの耳には綺麗ごとないしは戯れ言に聞こえる。


どんな綺麗事を並べようとも、どん底にいるときは、そんな戯言は届かない。


リアルな人生とは、そんな綺麗にまとめられるほど、つまらないものではない。

ハッピーエンドで綺麗に終われるほど、人の一生は単純じゃない。


...


以前、15年ほど引きこもっていたという恐らく30~40代の男性Kさんと出逢い、恋愛関係になった友人Yがいた。

Yさんは、壮絶な恋愛を経て、自尊心の欠如を経験し、女性にして頭を丸めて坊主にするという選択をした。そして、彼女とは高野山のお寺の職場で出逢った。

間違いなく、Yさんは私の人生の中で印象的な人物だ。


話は戻るが、

そのKさんに人生の選択について相談していた友人は、Kさんからこんな言葉をもらっていた。


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冷たい言い方かもしれないけど、好きにすればいいんじゃないかな。

ただし、その結果は甘んじて受け入れるしかないけどね。


人間って不自由な生き物だと思うよ。空は飛べないしクジラみたいに泳げないし陸ですらそれほど走れない。

狭い世間でぶつかり合って足引っ張り合って、何か全然おもしろくないなって思う。


でも、そんな自分を受け入れて引き受けるしかないんだろうね。生きていくのなら。そうしたら、今ここの自分にできることが見えてくる。その中から選ぶことはできる。


人生ってそんな地味な作業の積み重ねなんだろうね。ささいなことに傷つくけど、ささやかなことに幸せを感じて生きる。何に傷つき癒されるかは自らの選択に由る。

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生きるということは、本来このくらい地道なことであり、映えるものではないのだ。

それを、メディアやドラマや映画が「感動」を構造化し、打算的に作り出したのだ。


それら虚構が私たちの生活に入り込み、私たちの「理想」と重ねて投影された。


だから、「理想と現実のギャップ」の乖離が大きいのだと私は思う。


実際の生活は、そんな映えるものでもなければ、感動的な瞬間というものは少ない。

生きていると、極稀に素敵な感情に出会う機会はある。だが、ドラマや映画の展開のように2時間そこらで、まさかそんな高い頻度ではそんなことは起きやしない。それが、リアルだ。

しかしながら、そういった作品ないしはメディアに振り回されると、自分の実際の生活が虚しく思えたりする。



それは、もうやめたらいいんじゃないかなと思ったので今日はこんなことを書いていた。笑


さいごまで読んでくれてありがとう!