わたしの価値観では、いつもそうだった─。
とはいえ、「何人に届くか」に全く興味がないわけではない。だが、「誰にどれほど伝わるか」の方が興味があり、いつも優先される。
悪く考えれば、「どれほど自分を理解してもらえるか」という問いに囚われている人生でもあるとも言えると思う。
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わたしは、自分自身を「理解してもらえた」と感じられた経験に乏しいのだろうと自分では予測している。
未だに、「他人に理解されること」を諦め続けている自分がいる。そして、どこか一線で、この世界から拒否されている気がする思想も拭えていない。
ときどき悲しくなったけど、それが現実だから受け入れる努力をしてきたつもりだった。
渇望しているものほど、慎重になるのが自分の性だと思う。
渇望し続けているからこそ、「理解してもらえた」と感じられた稀な体験は、”思い出”となり、わたしのすぐ傍で”なつかしさ”として長いこと纏わりついている。
”なつかしさ”に生かされている時期も存在した。
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他人に理解されることを一度諦めたのかもしれない。
心から強く望むものほど、「存在しない」と悟ることが苦しかったから、それ以上の追及もやめた方が良いんじゃないかと思った。
だから、「好きな小説や音楽を創作したアーティストの思想を想像して浸る」という虚構によって自分自身を癒したのかも知れない。虚構の中であれば、「存在する/しない」は関係のない世界に行ける。
「存在するかどうかわからないけど、希望は持っていい」と思えるのが、フィクション(虚構)の世界である。
書いていてわたしの中にあったのは、渇望と諦め、そして恐れや希望だ。
相反する感情でも、自分のなかには一遍に存在するものだと、ほんとうに最近よく思う。
人の中に存在する感情は、明瞭なものではない。
もとより、そこには”わかりやすさ”などはじめから無く、本来は必要のないことだろう。
恐れと同時に、希望を携えているし
楽しさと同時に、不安を抱いているし
信じると同時に、疑いを抱く。
人間そんなものだよなぁーと書いてて思ったのでした。