こないだまで高野山のお寺にいた、やまかなです。
前回のブログでは、お寺に行く前にアイデンティティ・クライシス(自己喪失)に陥った話を書いた。

アイデンティティークライシスに陥っていたわたしは、自分の人生に興味が持てないことに悩んでいた。周りが当然のように「生きる」を選択してるように見えて、自分が異質に感じて、どこにも当てはまらないんじゃないかと思った。

そのときの私は、
とにかく無気力になった。
(無気力になるよう努めた。)
感情の起伏もなくなった。
(感情の起伏がなくなるよう努めてた。)
すべてに無関心になった。
(無関心になるよう努めてた。)
すべてに「どうでもいい」「なんでもいい」と思った。


(今思えば、()の中の解釈になるかなと思って書いた!)  

お寺に行くあたりは、「心が動かないから、無関心になるのだと認識していた」けど、"ほんとう"は、「自分が無関心になるために、心が動かないように努めていた」と知った。

そんなわたしも、お寺で出逢った同じような悩みを抱えていた同僚の友人たちや、コルクラボで出逢えたラボ生と関わる中で、ほんとうに少しずつではあるけど、お陰様で自分の片鱗が見えてきた感じがあった。




...

そして、ついこないだお寺での就労を終えたわたしは、ずっとやりたかった「断食」をするために、静岡県伊東市にある断食施設の研修生になることにした!










石原結實先生という院長先生が35年前に作った施設で、この方は自然療法を学んだ末に「断食」を日本に取り入れた第一人者の方らしい。

先生は、健康の本質が「断食」にあると考えている。断食で癌を克服する人の話はまあまあ聞く。それも、かなり共感する。

(ちなみに、わたしの友人に、自身が癌になった時に、がんを消すために自分で試行錯誤した結果、癌の正体は「感情だった」と言っている人もいる。なので私もそうだとは思ってる!)


だが、平成生まれの私から捉えた社会から見れば、「断食」は健康のためというも勿論だが、自分をより知るためのツールとしても有効であり、自分をより知ったその先に、健康があると思っている。





「断食」を選んだのには、2つ理由があった。

1つは、タイトルにあるように「自分をより知るため」
2つは、「好奇心の探求」だ。




■「断食」で自分をより深く知れると思った。

私を含める現代人は、自分自身の感情を司ることがニガテだと思ってる。
それは、思考が心を支配(ジャマ)をして、感情を思考でパッケージングしてしまうクセがあると思うからだ。

"ほんとう"にある感情をパッケージングしてしまえば、それは"ほんとう"が奥に隠され、なかったものになる。

そうやって、感情をはじめからなかったものとして扱うことに、昔から違和感しかなかった。

「社会人たるもの、人前で怒りを表してはいけない」のような社会にきっと今もある見えない暗黙のルールのようなものも、きっとそうだ。




わたしは、ずっと思考で、"やりたいこと"を定めてきた。
だけど、思考ばかりで決めてきた結果、自分を深く知らなかったが故に、前回のベンチャー企業では、社長もわたしも、組織半壊という挫折をした。

組織半壊を経験して思ったのは、組織が崩壊したりするのはマネジメントが原因ではなく、わたしは「各々のメンバーが、己を知らないこと」にあると思ってる。



そして、「断食」をすると、五感が敏感になり、感情を司り易くなるらしい。

だから、まずは自分自身がもっと感情を司りたいし、思考ではなくもっと感情で自分を知りたい。







■断食でわたしの「好奇心の探求」ができる。

断食は、わたしの「健康」についての好奇心を満たしてくれるはずだ。

世の中には不思議なことがたくさんあるが、私の中での「健康」にまつわる不思議は、不食の人が存在するということだ。

不食・・・「食欲と戦わずして食べない」行為で、宗教的な意味合いを持つ「断食」やダイエット、健康診断の直前などに医療目的で行われる「絶食」とも異なる。

私の管理栄養士の友だちが、不食の弁護士の人に会いに行ったときに聞いた言葉が衝撃的だった。
「飢餓が存在するのは、『食べなければ死ぬ。』と思い込んでいるからだ。」という。

この仮説が正しいのなら、私達は、思考でいかようにも自分の生きる世界を左右できるということになる。

わたしは、小説を読んで、生きる世界が変わり、生きやすくなったことがある。それは偶然性が前提にあると思っていたが、この不食の人のように生きる世界や概念が、偶然性に頼ることなく自分で自在にコントロールできるならば、今とはまた違う世界が見えるんじゃないかと思った。

だから、このあたりの興味を追求したい(笑)




断食を、まずは10日やろうと思う!
それじゃまた!