前に、久しぶりに会った友人に
「今は、ふつうに働いてるんだね。」と言われた。

はじめは、その人の指す”ふつう”がわからなかった。

ITベンチャーのスタートアップ企業にいたときも、
老舗建設中小企業にいる今も、
給食現場の栄養士をしていた時も、
スナックでちょっと働いてみた時も、
私にとっては
全部ただ私であって、
全部が”ふつう”だったのに。


ITベンチャーで働く私は"ふつう"じゃなくて
中小建設業の事務で働く私は"ふつう"なんだと
その人は思ってたんだろうな、と思う。


私にとっては、すべてがふつうであり、既知であることから、わざわざ「私って普通だよね。」なんて誰かに言う必要がなかった。
それに、私にとって面白い"ふつう"を「普通だね。」と一辺倒にされたように言われてしまうのは、私の人生がつまらないと言われたような感覚に陥る。

「普通だね。」って「つまらない人だね。」と同じ意味にしか私には聞こえなかった。

もとより"普通"の定義なんてものは、人の数だけあるのに。





ふつう【普通】
いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。



今思うのは、その人の物差しで見たときに分かったつもりになっていることに対して"ふつう"という表現を使っていて、深層心理的には「つまらない」と感じることに使っているんだろうなぁと思う。





私は、「今は、"ふつう"の仕事してるんだね。」と言われたときに、それ以上の会話(私に関する話)はブロックされた感じがして、詳しいことを話すことはやめた。

知ろうとしてもらえなかったことが、私も話そうと思えなかったことが、ただ悲しいなと感じた。

私がただ悲しかっただけで、知ろうとしない誰かを責めようとか、言えなかった自分を責めたいとか、そういうこともない。

ただ悲しくなっただけだよなぁ、と思った。


昔の私は、こういう感情や思念をひたすらに自分しか知らないよう自分の中に閉じ込めて、どこにも発することなく、"ないこと"にしてたと思う。

けど、そこから色々と変わっていった今の私は、全くそうは思わない。
自分の考えも表現して良いし、それに何か思うなら私に言って欲しいし、そこからお互いに話してみて関係が駄目になるならそれは、その時はそういうもんだったんだと思う。
それでも何処かで縁があるなら、何か意味のある繋がりだったのかもくらいに思う。

「来る者拒まず、去るもの追わず」の意味がわかったような気がした。