20〜23歳頃の私は、全力で生きていた。
国際協力を志して、栄養士から始まり、大学へ通いながら、最終的にヘルスケアアプリのベンチャー企業にいたときは、365日仕事をすることを望んでいて、目標を達成するためには何も惜しくないと感じていた。

けれど、23歳の3月末に、チーム半壊/社長と決裂と共に燃え尽きてしまった。

それからというものの、24〜26歳頃の私は、腑抜けたような日常を送った。
その間は、あの全力だった時の自分と比較して、ひたすらに落ち込んでいた。燃え尽きて、腑抜けてしまった自分が赦せなくて。
不甲斐なくて、無力感が蘇って無気力になるか、涙することが多かった。

──

現在26歳の3月、燃え尽きてからちょうど3年経つ。この3年間は、あの頃に比べたらのらりくらり生きていた。
100BANCHで知り合った人の会社でヘルシー置き菓子の新規事業を手伝ったり、ボーダレス・ジャパンでビジネススクールスタッフとして手伝ったり、ETICのローカルベンチャーラボに入ったり、兵庫県豊岡市の城崎で住み込みバイトをしたり、フィリピンの田舎市にホームステイに行って知り合いの店を手伝っていたり、半年くらいコロナの持続化給付金申請会場で働いたり、高野山の寺に住み込みでバイトをしたり、断食施設で働いたりした。

全力の3年間の「これの為に、目の前のこの選択を選ぶ」という「我思うがゆえに我あり」のデカルトの思想がベースのような選び方とはまるで違う選び方になっていった。
流れに身を任せるような、とりあえず東洋思想的な「縁を感じたところに飛び込む」というものだった。

『これで大丈夫か』と心配になり不安で眠れない日も続いて不眠になったりはしたけれど、その心配事を一時忘れるくらいに、時折賑やかな日が続いたこともあった。

この燃え尽き後3年の間の一年間ほど過ごした伊豆の断食施設での日々は、不安が入り混じったり、賑やかな日々になったり、この繰り返しだった。

ただ、この不安で仕方なかった時期も含めて、今となっては全て必要だったと運命思考のように感じてる。
特に断食施設での出会いは、出逢うべくして出逢ったとしか思えないものだった。

フロントの先輩やキッチンの皆は、親戚の叔父/伯母、従兄弟のお姉さんのような存在で、社長(院長婦人)とおそうじさんは、皆私のお母さんだった。
院長と専務は、私の祖父のようだった。
拡張家族のような感覚だった。

この断食施設は、もはや実家のような場所になっていた。だから、辞めてもいつでも戻ってきて良い場所だと感じているので、繁忙期に戻ってきて伊豆に帰省するつもりだ(笑)

自分では到底受け入れ難いどうしようもない自分を曝け出して、それを受容して接してくれた今の職場には感謝しかない・・・。

職場の人が、自分に対して否定や肯定をしてくれて、向き合ってくれたから今の自分がいると感じる。


───

全力だったときの私は、自分の生きる価値を見出してそれに必死にしがみつくような生き方をしていた。

しかし、燃え尽きたとき、"生きる価値を見出す"ためのその環境ごと/居場所ごと無くなり、その生き方ができなくなってしまった。
3年間のらりくらりを経て、生きる意味など初めからないことが腑に落ちて、人生は退屈で、自分ひとりの人生はそれほど取るに足らないものだと感じた。(これは前向きな意味で!)

けれど、どうせなら楽しく生きたい。
なら、全力の3年間のように「生きてる価値を見出すこと」を目的にして苦しむのではなく「楽しむこと」を目的にしようと思った。

楽しむには、虚無感や無力感からは脱したい。だから、自分がどんなことに時間を使いたいと感じるかということを、見極めようと思っていた。

その答えを出すために軸になったのは、人生において"友達の重要度が高い"ということだった。

だから、私は、
どんな人と関わっていたくて、
どうやって生きていたくて、
その生き方をするにはどうしたら良いか、
どんな選択を選ぶべきなのか、
その全部の最大公約数的な答えをずっと探していた。

腑抜けてちょうど3年たった3月頃の最近、やっと少し見えてきたような気がする。
そして、全力3年と、腑抜けて3年が経つ今月3月は何か決断するにも「良い節目だなぁ」とも思った。

3年間走って、3年間休むなんて、丁度良いなと思った(笑)



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この3年は特に、思い出を思い出してばかりだった。懐かしい思い出に縋って、あのときの心の動きを再生しては、自分という人間を取り戻そうとしていたように思う。
──しかし、最近気づいたのだけれど、腑抜けていた間に思い出していた"思い出"は、『走馬灯』だった。

走馬灯は、死ぬ前に見るとかいうフラッシュバックのようなものであり「死亡フラグ」を意味しているようなイメージするかも知れない。

けれど、「鬼滅の刃」ではこんなシーンがあり、走馬灯を違う解釈ができた。




医学に詳しいしのぶは、「一説によると死の直前に人が走馬灯を見る理由は、今までの経験や記憶の中から、迫りくる死を回避する術を探しているんだそうですよ」と「走馬灯現象」を説明します。 

しのぶの解説が正しいかどうかは現代の医学でも判断しかねますが、これまで「死亡フラグ」として描かれることの多かった「パノラマ記憶」とも呼ばれる「走馬灯現象」のことを、ギリギリの状況下でも生き抜くために備わっている未知の身体機能として捉えているところが、『鬼滅の刃』の面白さではないでしょうか。


また、先日大阪で初日だった月光再演のヨルシカのライブで、同じような捉えられることをナブナさんが言っていた。
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「僕達は、深い深い海の底にいる。言葉の砂に足を取られて、表現の波に覆われていて、とても身動きできない。」


こんな台詞や、ナブナさんの懐かしい思い出達がある日常と思われるワンシーンがフラッシュバックしている映像が繰り返し流れ、ライブの最後には「──全部、走馬灯だ。」と締めくくられる。


これらの作品に触れて、ここ3年の自分のこころの状態を意味づけられた気がした。

高野山へ行ったくらいの一昨年11月頃、アイデンティティ・クライシス(自我の崩壊)を感じたことは確かだったけれど、その後の無力感や虚無感に苛まれた中で思い出や過去の記憶に縋るしかなかった自分は、「思い出しかないから、もうこの先の人生はどうしようもない。」と感じていた。
焦燥感と絶望に近い感情だった。

けれど、それが「今までの経験や記憶の中から、迫りくる死を回避する為の術を探している」のだとしたら、その焦燥感や絶望感を抱いた私は"生きようとしていた"ことになる。

──

コルクラボに入ったあたりの自分は、ベースがかなり無気力だったのだけれど、ラボに入って一年半くらい経った今結構元気になっていて、ラボの存在は本当に有り難かったなぁと思う。

ラボで少しでも自分へ関わってくれたラボメンに感謝…。🙏🌼本当にありがとう💐

まだ道半ばではあるけれど、4月中頃に一旦伊豆の断食施設という名の実家を離れ、友人の紹介で建築の事務をすることになっている!

新しい法人ができるらしく事務所の立ち上げをやるとのことで、それも楽しみにしている👏

ここで数ヶ月働いたら、データサイエンティストの講座を受けられたらいいなと考えている。
どんな仕事なのか知りたいなぁと思っていて、そのうち「ラボメンのデータサイエンティストに声を掛けさせてもらいたいっ」と思ってるので是非話を聞かせてほしい・・・!

この選択が、私の最大公約数的な答えだった!
なかなか言語化するのは容易くなかったのだけれど、ラボメンへ伝わると良いな〜



変な時間に起きてしまって、時間があったのでつらつら書いたよ✍️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️️
読んでくれてありがとう\(^^)/