心の状態というのは、自分の主観ジャッジしていくしかないものだなぁと最近よく思う。

今の私は、昔ほど辛くなったり、苦しく感じることが減ったなぁと思う。生きやすいという気持ちがこんな感じだったのかそういえば、と遥か昔の記憶を思い起こさせられる気持ちだ。











見てわかりやすい外傷
見えずわからない心傷


外傷のような目で分かりやすい怪我の治りに比べ、心の内側の傷は、治っている最中なのかひどい状態なのかよくわからない。

目に見えないので、周囲から言われる言葉で自分の心の状態をジャッジしてしまうことがよくあった。

内心ものすごく傷ついていたとしても、
悟られないよう傷をなかったことにして
傷ついていない"前提"で
誰かとコミュニケーションを取れる。

逆にそれほど傷ついてなかったとしても
傷ついたフリをすれば、
傷ついたことにできて、
傷ついている"前提"で
誰かとコミュニケーションが取れる。


そして、そうして積もり積もった"フリ"が功を成して、何が"本当"なのかわからなくなる。
自分の"本当"の心の状態がわからなければ、平気でいられると感じていた。

私は、この状態が1〜2年間続いたなと思う。












ぼろぼろだったコルクラボ入会時


今から二年前の2020年は、コルクラボに10期で入ったときだった。

正直、ボロボロの精神状態を経て、かさぶたができ始めたくらいの時期にnote文学サークルに入り、その約三ヶ月後コルクラボに出会った。

歩いているとふと辛くなって涙が出てくるような、不安定なそんな時期だった。

信頼していた人に裏切りを感じてしまってから、自分のこともわからなくなってしまい、生きていた世界/信じていた世界が壊れて、自分自身と同時に世界に何の信頼も持つことができなくなっていたときだった。

その時に当時の文学サークルの一名が書いていたnoteに少し心が救われ、僅かな信頼を感じたものに入ってみたいと思い、少し縋る気持ちで文学サークルへ入った。

文学サークルで読んだ本は、今でも私の中の大事な一部に感じられるくらい生きるのに必要な血と肉を得られたように感じた体験だった。

その流れで、コルクラボに入ることにしてから二年も経つなんて、予想もしなかった!











人と関わることが怖かったのに、
人と関わらなきゃと無理をした入会時


振り返れば、ニ年ほど前の私は、コルクラボでもそれ以外の場所でも心の傷を隠して、悟られないよう気をつけて過ごしていた。
けれど、きっと周りにいたラボメンの誰かは気づいていたんじゃないかと思う。
(もんちゃんにも、入会時からやまかなは変わったよね!と言われたから。👏)

入会時の私は、正直無理して人と関わろうとしていた。オンラインサロンは、人と関わらなきゃいけないものだと言うバイアスがあったからか、無理をしていた。

本当は自分の内側が傷ついていたのに、傷ついていた事に気づけなかった。気づかないフリをしていたともいう。


今振り返れば、この時期は
"自分の心の状態をどう確かめたら良いかわからない時期"だったんじゃないかと思う。

自分では自分の心がわからず、周囲の意見や評価でそのまま心の状態をジャッジして、「"本当"の心の状態がどんなか」を分からずにいた。

つまり、
"自分の心の状態をどう確かめたら良いかわからない"とは、
"自分で自分のことを信頼できていないこと"同義なんじゃないかと今は思う。






14期生もたくさん入会してくれた時期にちょうどこんなブログを書こうと思い立った(吉日!)。

入会時の自分へ戻れるなら、上手くできない自分を責め続けてしまったとしても、「"それ"も含めてありなんだよ」と声を掛けてあげたいよなぁとそんなことを書いてて思い返しました。

14期生どうぞよろしく🕊️

PS.ちなみにトップの画像は、1,2年前に京都にある鞍馬寺へ行ったときの写真。当時は縋るものが無さすぎて、自然を神とするという鞍馬教を学びに行きました(キリストやよく分からん神より信じられそうだったから笑)。